文:松浪健四郎(文部科学副大臣)
体大時代、全日本学生選手権優勝を経て、東ミシガン大学にスカウトされる。その後、NYアスレチッククラブ所属選手となり、全米レスリング優勝。専修大教授から1996年より衆議院議員。
来日中のアフガニスタンの新外務大臣と衆議院院内食堂での歓迎会で '06.6.6
日本人の若者がNYCに腰を落ち着けて、最初に考えるのは仕事であろう。私たちの時代は、1米ドル360円だったうえ、国民所得が低かったので送金など困難だった。私はミシガンの大学ではフルスカラーシップを受けていたので、アルバイトなどせずとも留学生活を送れた。が、NYCにたどり着いて、仕事をせねばならなくなってしまった。
外国からやって来た人たちは、なりふりかまわず仕事をする。いや、仕事の内容などを吟味していたら、食っては行けない。日本人のお決まりのコースは、レストランの「皿洗い」だった。私たちもビザの問題をかかえていたから、「皿洗い」をした。
すでに現在ではそのレストランは消えているが、三番街のEAST34丁目にあった。『ヒメ・オブ・ジャパン』。経営者は中国人であった。この経営者は、「皿洗い」のアルバイトは完全な給料制で、チップの山分けに参加できるのはウェイター、ウェイトレス、コックだけ。私の時給は1ドル25セント、最低賃金。忘れもしない。
しかし、有難かった。食事をさせてくれたに加え、ビザのことなど不問だったからだ。私は、手が洗剤で荒れるにとどまらず、皮がむけるまで働いた。私は、それでも最後まで「皿洗い」だった。
所得が大きくなると、人は満足してしまう。満足してしまうと現状維持を望むようになる。当時、日本社会では、アメリカにいるというだけでも自慢できる時代で、どんな仕事であれ、うらやましく思われた。
アルバイトが、いずれ職業になってしまう。そんな人たちも私の周辺に多数いた。市民権を獲得するために、弁護士事務所に通う人たち、NYCで永住を決意している印象をうけた。
私にはアメリカ永住の気はなかった。英語力のせいではなく、日本社会で活躍したいと考えていたからである。NYCに流れ着いた私は、帰国の旅費を工面する必要があった。で、いろんなアルバイトに手を染めた。
NYCで会った日本人たちは、おしなべて個性的であられた。そして親切、いろいろと手を焼いてくれたものだ。面倒をみてくれた人たちを今も覚えているが、残念なことに消息不明。
いずれにしても、NYCで経験したアルバイトは、私の人生で大いに役立ったばかりか、私の人間としての幅を広げてくれた。若い頃、やはり何でも体験するのは尊い。
さて、レストランの奥のトビラは、どんなに寒い日でも開いていた。イミグレーションの係官が調査に来た際、「ここから逃げるんだよ!」と教えられた。かかるアルバイトを経て、現在の私がある。
